『町村誌』によると、応永(おうえい)七年(一四〇〇)大文字党として村上満信に属し、反守護軍として大塔(おおとう)合戦に出陣した広田掃部助(かもんのすけ)は、広田の居帰(いがえり)に住して、広田・藤牧を領した。その後裔(こうえい)、広田宗長は、長禄(ちょくろう)二年(一四五八)諏訪上社頭役を勤仕している。天正(てんしょう)十年(一五八二)の『下諏訪宮造営帳』には「舞台造営、広田分」とみえる。その後、広田氏は芋川城(三水村芋川)へ移住するにさいして、広田の地を支族藤牧氏にあたえたという。天文(てんぶん)・弘治(こうじ)(一五三二~五八)のころは、武田晴信(信玄)の所領。伝承によると、武田氏は広田に砦(とりで)を築き、天文二十一年(一五五二)これを千見(せんみ)城(北安曇郡美麻村)の城主大日方直長に守らせた。慶長(けいちょう)七年(一六〇二)『川中島四郡検地打立之帳』には「五百七拾九石七升四合、広田村」「弐百八拾弐石四斗、藤牧村」とある。明治八年飛び村であった西藤牧は御厨(みくりや)村に属し、元村は広田村と合併して田牧村となった。
広田の「ヒロ」は「ひどろ」の縮音か。「夕」は「ところ」の意。したがって「ヒロタ」は「じめじめした湿地」。これを縁起のよい文字の「広田」で表記したものか。また「フジマキ」も地形から出た語で、「フジ」は「節」で、小高いところ。「マキ」は川の曲流部。したがって「フジマキ」は「川の曲流部に当たる自然堤防(微高地)」から出た地名で、「節」を縁起のよい文字「藤」で表記したものか。