稲里地区は中氷鉋・下氷鉋・田牧の三ヵ村が合併した直後の明治二十四年(一八九一)は、戸数四三九戸・人口二五五八人であった。その後、昭和二十五年(一九五〇)には、六二七世帯・三六〇〇人となった。更北村が発足した同三十年は、六六四世帯・三六三七人と、六五年間に戸数、人口ともに微増したにすぎなかった。しかし、更北村時代から長野市の新興近郊住宅地として世帯、人口ともに増加の傾向が顕著になった。長野市に合併した昭和四十一年十一月には一〇三四世帯と一〇年間で世帯数は倍増し、人口も四〇九四人となった。その後、広田・陣場・田牧・三本柳などの住宅団地が生まれた。平成八年(一九九六)には二七五三世帯、八五九八人と世帯数、人口ともに長野市合併当初にくらべ倍増した。さらに、国道一九号南バイパスの新設計画に即応して始められた対象面積六〇ヘクタールにおよぶ稲里中央区画事業の完成によって、バイパスの沿道は大型量販店による商業街が、区画内部はアパート群や一般住宅で埋めつくされようとしている。こうしたことから稲里地区は転住による人口の社会増加が多く、平成十一年十月には三二九七世帯、人口は九四九六人となった(『市統計書』)。