稲里地区では、オリンピック関連道路の新設や稲里中央区画事業など大型開発事業にともなう埋蔵文化財の発掘調査もおこなわれたが、遺跡・遺構は、南部の境集落に近いあたりで縄文後期の土器片が若干検出された程度であった。これらの地域は、表土を削除したあとは、かなり深層部まで砂礫(されき)が堆積(たいせき)していた。中央区画では、それが一〇メートルにも達していた。このように堆積量が莫大(ばくだい)なためか、稲里地区での遺跡の発掘は、今のところ「田牧居帰(いがえり)遺跡」「田中沖遺跡Ⅱ」など、堆積した砂礫土の薄い南部地区に限られている。
田牧居帰遺跡は、昭和六十二年(一九八七)、県住宅供給公社によるこの地域の開発にともなう緊急発掘調査によって検出された遺跡である。この地域一帯では周知されている遺跡はなかったが、表面調査では弥生時代後期の土師器(はじき)の坏(つき)・甕(かめ)、須恵器(すえき)の甕片が採集され、新発見の遺跡として発掘調査された。この調査で住居跡一二軒、建物跡一棟、柱穴(ちゅうけつ)群二ヵ所、焼土をともなう溝状遺構一ヵ所、竪穴(たてあな)状遺構、水田跡様遺構一ヵ所、土擴(どこう)二七基、溝跡二七本が検出され、平安時代を中心とした集落跡と推定された(『田牧居帰遺跡』)。
田中沖遺跡Ⅱは、昭和六十三年・平成元年(一九八九)に神明広田土地区画整理事業にともなう緊急発掘調査によって検出された遺跡である。この遺跡は「田中沖遺跡Ⅰ」から水田をはさんで南に展開する微高地上にある。調査の結果、古墳時代後期から平安時代末にいたる住居跡一〇六軒、柱穴群一三ヵ所、溝跡二九本が検出され、大室(おおむろ)古墳群や富部御厨(とんべのみくりや)を支えた集落遺跡の一つであることが判明した(『田中沖遺跡Ⅱ』)。