西居帰の小字「権現堂」は、広田氏の館跡と伝えている。『町村誌』に「広田館は、字居帰にある。東西約三三一メートル・南北約三六七メートル、広田某居住の地なり」とある。県住宅供給公社によって田牧団地が造成されたとき、この付近の緊急発掘調査がおこなわれた。その結果、甕(かめ)・坏(つき)などのほかに、瓦塔(がとう)片・陶硯(とうけん)が検出された。これについて、市埋蔵文化財センターでは「瓦塔の存在は、近隣に仏教関係の遺構があることを予想させる。陶硯は五角形、または六角形と推定される特異なもので、裏面に意図不明な線刻が描かれている。仏教関係、役所的な遺構が存在したことを裏づける史料である」と結語している(『田牧居帰遺跡』)。
広田氏は、鎌倉初期から戦国期にかけて、広田・藤牧を領した土豪である。村上為国の六男親国が広田に分知し、地名によって広田氏を称したのがはじまりという(『更級郡誌』)。その子孫、広田国房は鎌倉幕府に仕えた。建久(けんきゅう)二年(一一九一)三月三日に鶴岡八幡宮の法会(ほうえ)がおこなわれた。法会の終わったあと、国房は翌四日に起きた鎌倉の大火を同僚らに予言したという(『吾妻鏡』)。広田右馬介も鎌倉幕府に仕えた。建長(けんちょう)二年(一二五〇)三月一日の寛院内裏造営の『雑掌分担目録』に「二条より北、油小路面二十本。二本、広田右馬介」とある(『吾妻鏡』)。応永七年(一四〇〇)九月、村上満信に属して、反守護軍として大塔(おおとう)合戦に参加した信濃国人のなかに広田掃部之助(かもんのすけ)の名がある(『大塔物語』)。広田宗長は、長禄二年(一四五八)水内郡北高田(古牧)地頭布施氏の代官として諏訪神事の頭役を勤仕している。広田氏は、代々水内郡芋川氏と姻戚で、芋川氏に後継ぎがなかったため、芋川(信濃町芋川)に移って芋川氏を称し、その支族藤牧氏に旧領広田・藤牧の地をあたえた(『更級郡誌』)。