稲里地区には各種石造物が一〇〇基ほど、寺社、公民館、道路筋に散在して建てられている(『市石造文化財』第三集)。このうち、六地蔵が二五基と全体の四分の一を占めている。これは、六基一組の六地蔵が、渕默庵(えんもくあん)・善導寺・境福寺・昌龍寺にそれぞれ檀信徒によって建立されているからである。六地蔵についで多いのは、庚申(こうしん)塔一三基、石灯籠(どうろう)一〇基、地蔵菩薩(ぼさつ)八基、道祖神七基などである。
時代の判明している石造物のなかで古いものは、昌龍寺の石幢(せきどう)型六地蔵である。承応(じょうおう)二年(一六五三)の記年があり、この地方における六地蔵はもとより、石造物のなかでも古く江戸初期の部類に入る。
念仏塔は、稲里地区に五基ある。中氷鉋の渕默庵念仏塔は、徳本の直筆の念仏塔で、文化十三年(一八一六)五月十四日、徳本によって直接開眼供養(かいげんくよう)された。この開眼供養には、小雨のなかにもかかわらず、四、五百人ほどの人びとが参集したという(『応請摂化日鑑』)。
下氷鉋の明桂寺の境内に建立されている宝籤印(ほうきょういん)塔は高さ五メートルある。宝籤印塔はもとより、石造物のなかでも最大級の部類に入る。台石には天明三年(一七八三)七月の記銘がある。この宝篋印塔が建立されていたころ、浅間山が大爆発して全国的な大凶作になり、天明の大飢饉(ききん)が始まった。
野池公民館にある自然石の道祖神は、以前は主要地方道長野真田線と市道稲里東福寺線の分岐点に北東に向いて建てられていた。記年はないが「右いなりやま 左松代」と記銘されている。道標を兼ねた道祖神で、旅人に寄せた往時の村びとの優しさを今に伝えている。