一 領主の変遷

791 ~ 792

 稲里地区は天正十年(一五八二)三月武田家が滅んだのち、森長可(ながよし)領・上杉景勝領・田丸直昌(ただまさ)領となった。徳川時代に入ると森忠政領となった。慶長七年(一六〇二)忠政は川中島四郡の総検地(右近竿(うこんざお))を実施した。この検地がのちのちまでこの地方の村々の石高の基準となった。この地区の村高は、中氷鉋村七七〇石余、下氷鉋村六七二石余、広田村五七九石余、藤牧村二八二石余である(『慶長打立帳』)。同八年松平忠輝領、元和二年(一六一六)松平忠昌領、同五年酒井忠勝領となった。忠勝は同八年八月、出羽国鶴岡(山形県鶴岡市)へ国替えになったが、このあいだに中氷鉋村など川中島八ヵ村(稲荷山・塩崎・岡田・今里・今井・戸部・上氷鉋・中氷鉋)一万石を弟忠重に分知した。このことが、元和八年以降川中島地方が分割支配される下地になった。元和八年上田より真田信之が松代に入封(にゅうほう)すると、下氷鉋・広田・藤牧の三ヵ村は真田松代藩領となり、明治維新を迎えた。

 中氷鉋村は、小諸より仙石忠政が上田領主として入封した以後は、上田藩領となった。宝永三年(一七〇六)仙石氏と交換移封で、松平忠周(ただちか)が但馬(たじま)国出石(いずし)(兵庫県出石郡出石町)から上田城主になった。享保二年(一七一七)忠周が京都所司代になると中氷鉋村は幕府領(天領)となった。同十五年松平忠容(ただやす)の塩崎旗本知行所の成立にともない、村高七七〇石余のうち、六三九石余は上田藩領(本郷)、一三三石余は塩崎旗本領(分郷)と分知された。

 松代藩領の下氷鉋・広田・藤牧の三ヵ村は、藩主と地頭による相給村である。寛文元年(一六六一)『家中分限帳』によると、下氷鉋村は村高六七五石余のうち、八〇パーセントの五四六石余が九人の地頭に、広田村は五八〇石余のうち九一パーセントの五二八石余が七人の地頭に、藤牧村は村高二八五石のうち、三五パーセントの一〇〇石余が一人の地頭にそれぞれ給与されている(村高は『正保郷村帳』による)。