上田藩主松平氏が宝永三年(一七〇六)入封のとき、領内事情を掌握するために村の明細帳を提出させた。このときの中氷鉋村差出帳(青木家文書)によると宝永三年の村高七七〇石余、切起こし六〇石余となっている。土地は野土砂交じりで、年により犀川の水害をうけた。農家は耕地・屋敷ともに所持する本百姓四三軒、屋敷のみ所持する相地(あいじ)百姓九軒、耕地・屋敷とも所持しない水呑(みずのみ)百姓三軒、このほかに鍛冶(かじ)屋一軒がある。人数は二六三人のうち、男一五六人・女一〇三人・出家四人。馬は二九匹飼われ、すべて雄馬で、牛は飼われていない。農作物は田では稲の栽培がおこなわれている。脱穀具は扱箸(こきばし)にかわって、このころには千歯扱(せんばこき)が普及し能率は上がったが、脱穀作業は過酷な農作業の一つであった。そのため粳(うるち)は「えいらく・こぼれ」などの脱粒しやすい品種が栽培され、糯(もち)米も栽培された。畑では大麦・小麦・大豆が中心に栽培され、そば・きび・あわ・ひえ、小豆・ささげ・ごま・たばこ・木綿・菜・大根などが自給的に栽培された。桑も少しではあるが、屋敷や、新たに開墾された耕地に植えられるようになった。播種(はしゅ)量は一反歩につき籾(もみ)一斗一升、大麦は一斗四升ないし一斗六升、小麦は七升ないし八升、大豆は四升となっている。田の肥料は刈敷・馬屋肥(まやごえ)・庭肥・豌豆(えんどう)、畑は本肥・下肥である。肥料の補給源の秣(まぐさ)は、松代領の関屋口(松代町)・赤芝口(同)・東条口(同)・保科口(若穂)の入会山に求めた。また、薪山として洗馬(せば)山(小県郡真田町)に入会山があった。戸部堰(下堰)が灌漑(かんがい)用水で、飲料水としても用いられた。村内には、まだ東西六〇間・南北五〇間(面積一町歩)の芝野が残っていた。田畑の小作料は上田畑籾四俵、中田畑籾三俵三斗、下田畑籾三俵一斗、下々田畑籾二俵三斗で田畑の小作料に差異はなかった。
年貢籾は藩役所の請求しだい、上田まで運送した。運賃は一駄について籾五升の勘定で支給されたが、籾一五四俵分の駄賃は支給されず、村役として負担した。渡し場の舟賃として矢代(更埴市)六俵・赤坂(篠ノ井東福寺)一俵・寺尾(松代町)四俵・関崎(若穂)五俵・市村(芹田)四俵・小市(安茂里)三俵を負担している。市場がないので上田(九里)・松代(一里半)・善光寺(一里半)・稲荷山(三里)・新町(四里半)・笹平(二里半)などに出向いて売買している。
村びとは主穀生産の農業を本業としているが、農業の合間を利用して作間稼ぎをおこなっている。男は刈干・薪の採取や、ねこ・むしろ・わらぐつ・わらじなどの藁(わら)細工、女は木綿布を少々織っている。藁細工や機織りは夜なべ仕事としておこなった。宝永差出帳にみられるように、この地区は米麦を中心とした村びとの暮らしであった。宝永期の「桑少々」が文化・文政(一八〇四~三〇)ころから桑が増植され、幕末になると米麦栽培・養蚕が農家の生業となった。畑作物はあわ・ひえ・菜・大根などの自家消費的栽培から、綿花・菜種など販売を目的として栽培される作物に変わった。こうした傾向は領主を異にしていた下氷鉋村・広田村・藤牧村も同じであった(『町村誌』)。