明治三年(一八七〇)の松代騒動では、川中島地方の村々は、村内に騒動がおよばぬよう自警団を組織して警備に当たっていた。十一月二十六日夜、赤坂舟渡し場に向かう騒動参加者によって中氷鉋村境組と広田村でそれぞれ民家一軒が焼きはらわれた。つづいて翌二十七日には、中氷鉋村で一軒打ちこわしにあった。また、この日、戸部村の自警団によって追いはらわれた騒動参加者が中氷鉋村に逃げこんできた。村では万一にそなえ、鳶(とび)、カシの棒などをたずさえて警戒していた。乱闘の結果、一揆がわは一人が即死し、二七、八人が村びとによって捕縛された。村では逮捕者を産土(うぶすな)神社に拘留し、事情を聴取するいっぽう、上田藩に知らせた。村役人は出張してきた藩役人に「逮捕者を取り調べたが、かれらはいずれもやむをえない事情で騒動に参加した。格別の罪状もないので寛大な処置を」と報告したので、藩役人は逮捕者をそのまま釈放した。即死者は吉窪(よしくぼ)村(小田切)の若者であった。戸部村で手傷をうけ、中氷鉋村まで逃げのびてきたところをまた打たれて、両眼が飛びだした状態で死亡した。村役人は知らなかったことにして仮埋葬し、騒動が鎮静したのち、親族が遺体を掘りだして引きとった。この騒動に参加した広田村の農民一人が准流(じゅんる)一〇年の刑に処せられた(『北信郷土叢書』巻四)。