一 用水の開発

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 こんにち、灌漑(かんがい)用水を犀川から取り入れする川中島地方は、気がねなく、いつでも、どこでも農家の都合で田植えをすることができるようになった。ここにいたるまでには、用水堰にかけた里びとたちの長い道のりがあった。

 明治二年(一八六九)の上氷鉋村『明細書上帳』(上氷飽区有文書)に「半夏(はんげ)三、四日前より田植えを始め、田植え後は、一日に三度ほどずつ水加減に見まわる。堰に水が少ないときは、夜不眠で田の畦(あぜ)で水番をする」という田水管理であった。犀川取水口に近い堰上流の上氷鉋村がこういう状態であったので、下堰・鯨沢堰・小山堰の中流域の稲里地区は、「水利不便、干ばつに苦しむ」村であった(『町村誌』)。灌漑不便に嘆いたこの村は、昭和二十七年(一九五二)「下・鯨沢・小山三堰の改修に協力して灌漑用水を豊富にし、全村ほとんど灌漑の便がある。水田は全部二毛作できるようになった。その産米麦・産繭とも多量で、良質」と稲里村長が胸を張る村に変わった(『村勢要覧』)。

 川中島地方の用水堰は、慶長十六年(一六一一)ころ、松平忠輝の家臣、花井吉成(よしなり)・吉雄父子が大整備して今日の灌漑用水堰の基礎を築いたという。それ以来、川中島地方は、上・中・下の犀口三堰によって灌漑されてきた。それとともに用水堰の保全・管理の負担、また、犀川が洪水するごとに流失する取水口・堰路の復旧普請など農民に重い負担がかかった。下堰の受益村高は中氷鉋五〇〇石・下氷鉋三七〇石・広田五八〇石・藤牧二八〇石である。また、小山堰かかり村高は中氷鉋二〇〇石・下氷鉋三〇〇石である。通常の普請も、災害などによる臨時普請も、この受益村高に応じて負担した。通常の犀口普請は下堰も小山堰も同じく高一〇〇石につき三人である。春普請は下堰は一六日、小山堰は一三日、秋普請は下堰八日、小山堰は二日である。これをもとに恒常犀口春秋普請を算出すると、下堰負担では中氷鉋三一五人、下氷鉋二三一人、藤牧一六八入の労務負担となる。小山堰では中氷鉋一〇八人、下氷鉋二六二人の労務負担となる。慶応四年(一八六八)の戸数は下氷鉋一一四軒、広田九八軒、藤牧四九軒、弘化四年(一八四七)の中氷鉋村一二一軒である。こうした当時の戸数から考えても、犀口普請は農民に重い負担となった。こうした恒常労務負担の上に災害の年には臨時労務負担が加わった。弘化四年の犀川大洪水による犀口復旧普請は延べ人足一万七八二八人のうち、中氷鉋村から一七六八人、下氷鉋村から五九六人、広田村から六八八人、藤牧村から四七一人が出役した(『犀口万年日記帳』稲里町田牧・柳沢雄二蔵)。

 また、鯨沢堰は下堰の枝堰で、下待居七ヵ村といった。中氷鉋村・下氷鉋村は下待居組合に属した。明治元年の犀川洪水で川床は低下し、犀口三堰の取水を困難にした。そこで下待居七ヵ村は新堰普請により取水口を設け、下堰組合村から離脱した。このときの普請負担金は、中氷鉋村二五七両余、下氷鉋村一九〇両余であった。恒常・臨時の負担は労務ばかりでなく、金銭的負担も村高に応じて拠出した(『御用日記帳』青木家文書)。