稲里地区は、江戸時代は善光寺町と城下町松代を結ぶほぼ中間点に位置し、また善光寺方面と上田を結ぶ位置にもあった。こうした立地が、物資輸送量が増大するにしたがって、この地区の道路を発達させてきた。この地区を南北に通じる北国街道・長野道・松代脇道が江戸・明治期の主要道路であった。明治の末ころまでは、須坂道・川田道など東西に通じる道はあまり整備されず、里道の感があった。
二 交通
稲里地区は、江戸時代は善光寺町と城下町松代を結ぶほぼ中間点に位置し、また善光寺方面と上田を結ぶ位置にもあった。こうした立地が、物資輸送量が増大するにしたがって、この地区の道路を発達させてきた。この地区を南北に通じる北国街道・長野道・松代脇道が江戸・明治期の主要道路であった。明治の末ころまでは、須坂道・川田道など東西に通じる道はあまり整備されず、里道の感があった。