稲里地区は川中島のほぼ中心に位置しているが、江戸時代は犀川の増水のたびごとに水害をうけた村でもある。犀川の洪水の年には年貢の減免願いが出されている(青木家文書)。文化六年(一八〇九)八月、犀川の大洪水で四ッ屋村の犀川堤防が決壊し、丹波島・青木島・真島を貫流した。濁流が流れくだった村々は大きな被害をうけた(『更級郡誌』)。念仏行者徳本は文化十三年五月十四日、念仏塔開眼供養のために中氷鉋村渕默庵を訪れたときの日記に「四、五年前、犀川満水の節、このあたりまで満水して船で往来したという」と記しているが、このときの洪水のことであろう。