弘化四年(一八四七)の善光寺地震ののち、四月十三日に川中島地方を襲った犀川の大洪水は、稲里地区にも大きな被害をあたえた。同年五月、中氷鉋村から上田藩に提出した『水災取り調べ帳』(青木家文書)によると、本田六四〇石余・新田六六石余が泥水をかぶり、砂入りになり、村内の橋七ヵ所がすべて流失した。また、家数一二一軒・人数五七四人のこの村は、土蔵物置潰れ六棟、居家流失三六軒、土蔵・物置流失一〇八棟、郷蔵流失一棟、居家水入り泥入り八五軒と全戸が罹災し、流死人も六人出た。
下氷鉋村明桂寺は、犀口から五キロメートルほど離れているが罹災した。このときの罹災のようすについて、住職は「当寺へは五尺、あるいは、四尺五寸水湛(たた)え、寺中は砂入り、田畑は押し掘り、または二尺・三尺余砂入りになった。諸堂は残らず被害をうけた。三月二十四日夜の大地震のとき、宝篋印(ほうきょういん)塔・夜灯残らず、門口まで倒壊した。
本堂・庫裏(くり)・土蔵二ヵ所・衆寮・長屋だけが辛うじて流失を免れた。塀一二〇間・裏門・雪隠五ヵ所・取付三ヵ所が流失し、行方がわからない。所帯道具の流失が多くて、何が流失したのか確認しようがない」と記している(「明桂寺文書」)。