稲里地区の寺子屋教育は、幕末から明治初期にかけてさかんになった。寺子屋では主に日常必要な読み書きそろばんを教えた。寺子屋教育は師匠の多くいた下氷鉋村がさかんであった。池翁(ちおう)寺住職快苗(かいびょう)や善導寺の歴代住職も子弟の教育にあたり、善導寺の住職信戒は門弟二五〇人を教えたという(『下氷鉋小学校百年史』)。しかし、この地区の師匠は住職や医師の野本周益を除いては、農民上層出身の人たちで、地域の子弟に読み書きそろばんを教えた。中氷鉋村の師匠には、青木左右衛門(そうえもん)・青木藤五郎・酒井栄・中島官左衛門らがいた。下氷鉋村は和算家、挿花師、俳人などがいて専門的な学問も教えたところに特徴がある。和算家では正村正之・野池嘉助・東福寺泰作らがいた。挿花師には田口源之丞・塩野源蔵・清水亀治郎・田中義一郎・中島状左衛門・野池三郎左衛門らがいた。また、俳諧師匠では中島得水がいた。
東福寺泰作は、天保三年(一八三二)下氷鉋村野池に生まれた。正村正之に明元流の算学を学び、その後、松代藩士池田定見について最上(さいじょう)流を学んで、一九歳で免許皆伝となった。松代藩命により領内六〇〇〇分の一の地図を作製し、藩の絵師田中月耕(小島田村)らに清書させ藩に献じた。佐久間象山にしたがって沼海の測量に従事し、象山の海防策に根拠を提供した。門人一〇〇余人という。著書に『演段術両定式』『演段両術』『貫通術』『規矩法図解』『規矩元法秘釈』など三五冊ある(『更級郡埴科郡人名辞書』)。