稲里地区は純農村地帯であったが、多方面にわたる地方文化人を生んだ。そうしてかれらの文化活動は、多くの後継者を育て、近郷へ波及させていったところに特徴がみられた。
この地区の俳壇の先駆をなした俳人に下氷鉋の揚舟がいた。揚舟は、加舎白雄(かやしらお)の影響をうけた俳人で、安永期に活躍した。安永二年(一七七三)刊行の『俳諧袋表紙』に「闇の夜や坪のうちなる白椿」の句がある。その後、下氷鉋は俳諧が盛んになり、幕末には春芳・照月・松緑・松呂・清山・静雲・静秋・田耕・白蛾・長楽、中氷鉋の野有らが活躍し、氷鉋俳壇の一時期を創った。明治・大正期には長楽・得水らが活躍した。長楽は西寺尾(松代町)の丿左(へっさ)の門人で、茂呂何丸(もろなにまる)以来の月院社を継ぎ(三世)、俳画・漢学・和歌・漢詩にも通じ、「匂ふ田や二百十日の花ぐもり」の句がある。得水は地方の宗匠として重きをなし、その句作は数千にも達し、近郷神社の奉納額にはきまって名を連ねている。また、得水は能書家でもあり、氷鉋諏訪神社の幟(のぼり)も揮毫(きごう)している。
戦後、更北公民館俳句教室から育った俳人に「白魚火」同人の大屋都志江がいる。自著句集『氷鉋』に記載の「着ぶくれて林檎(りんご)の幹の粗皮けずり」の句のように農婦の生活を詠んだ句が多い。
広田地区も文化・文政期(一八〇四~三〇)に多くの俳人が出て活躍した。文化時代の文魚は、下戸倉(戸倉町)の宮本虎杖(こじょう)や榎本星布らと親交があり、「母の罪を啼(なく)か阿漕(あこぎ)がうら千鳥」の句がある。虎杖門下には芝岡(しこう)・州明・雪江(せっこう)・草尺・双鳥・貞路・文松・馬槿(ばきん)・芳竹らがいた。明治期には翆艾(すいがい)・中洲(ちゅうしゅう)らが活躍した。翆艾の編著に『蓑虫(みのむし)集』があり、中洲は歌人としても活躍している。
歌壇では大正期に中島礼右衛門、中島学らがいた。礼右衛門は短冊型陸苗代・除草具蟹爪(がんづめ)の普及に努めるなどすぐれた農業指導者でもあった。この地区の歌壇がさかんになるのは、終戦後の公民館活動でおこなわれた短歌講座がきっかけとなった。東福寺六一郎は地元稲里をはじめ、小島田・青木島公民館などに講師として招かれ指導にあたった。犀南(さいなみ)合同歌集『流域』を刊行し、同人雑誌『さいなみ』を創刊するなど地方歌人育成に貢献した。著書に歌集『氷鉋』がある。
このほか、明治・大正期の南宋画の画家に田中蘭渓(らんけい)がいた。蘭渓の門弟には真島の吉田鴻崖(こうがい)、御厨の北沢梅景、下高田の西沢雲渓、昭和期では蘭渓の孫の幽渓らがおり、それぞれ地方画家として知られている。