昭和初期の農村不況打開策として県は「満州信濃愛国村」建設計画を策定した。更級郡では昭和十四年(一九三九)満州移民による「満州更級郷」を安東省宝清県尖山地区に建設することを決定した。団長には稲里村の正村秀二郎を任命した。同年六月、第一次先遣隊八人が渡満した。第二次先遣隊二三人は、稲里村役場職員であった青木克平を団長として渡満した。家族の入植者は、団長や青木ら幹部の親戚縁者が多かった。
稲里村の家族ぐるみの入植者は、青木敏夫(妻・子一人)、青木克平(妻・子四人)、青木幸治(妻・子一人)、柿沢二郎(母・妻・子三人)、清水光濤(みつなみ)(先妻・妻・子三人)、正村正之助(妻・子一人)六家族と正村団長父子の二六人であった。このなかで生きて祖国の土を踏んだ者は、正村正之助の妻と、現地入隊した正村団長の長男、教登と正之助の長男、喜久男の三人だけであった。
満州更級郷は、昭和二十年八月、一一九戸・四九五人が入植していた。戦況の悪化にともない若い団員と幹部はほとんど現地招集で兵役につき、更級郷を離れていた。八月九日のソ連参戦時に残っていた者は、正村秀二郎団長以下四〇七人、その大多数が婦女子であり、男性は年配者であった。更級郷の人々は正村団長に率いられて勃利県勃利佐渡郷に避難していた。二十七日、ソ連軍の一斉攻撃で、正村団長以下三三七人が玉砕した。更級郷全体では、死亡者四二七人、引き揚げ者一九人、現地招集復員者四三人、残留孤児六人で、生きて日本の土を踏めた者は、一割ほどにすぎなかった(『長野県満州開拓史』)。