戦後農村の民主化を目的として実施された農地改革は、日本農村の近代化の基礎を培(つちか)うための画期的事業であった。農地改革の結果、稲里村においては一二〇ヘクタール余の小作地が開放され、小作農家一九一戸は昭和二十五年(一九五〇)には、二二戸に激減した。また、小作料は金納化されて、長いあいだ農民を抑圧し、農業生産力の進展をはばんでいた封建的土地所有関係は消滅し、近代的農業の基礎が築かれた。
昭和二十三年の『県統計書』によると、稲里村の自作地は田九九ヘクタール・畑四一ヘクタール、小作地は田一三四ヘクタール・畑三七ヘクタールである。このうち、田畑の小作地は、全耕地の五五パーセントを占めていた。この小作率は更北地区ではきわだって高かった。真島村の三八・四パーセント、小島田村四五・九パーセント、青木島村四八・六パーセントであった。また、小作農家の占める割合も稲里村は更北四ヵ村のなかでは高かった。農家数五一二戸のうち、小作農家は一九一戸で、農家の三七パーセントを占め、小自作農・小作農では、六割近くにも達した。それが農地開放後の昭和二十五年には、小作地は全農地三三五ヘクタールの一五パーセント、五〇ヘクタールに、小作農家は全農家五一六戸の四パーセント、二二戸に激減した(『私たちの郷土さらしな』)。翌二十六年には小自作農家三七戸・小作農家一六戸(『村勢要覧』)とさらに減少し、両層農家数でも農家総数の一割を割った。