戦後の社会的、経済的事情でこの地区の農業は、水田の二毛作による米麦・養蚕の在来型農業が三十年代までつづいた。その後、水田の裏作は大小麦からたまねぎ・レタスなどにかわったが、四十年代ころまでは、水田の二毛作率は高かった。いっぽう畑地では昭和初期の養蚕不況により、桑園をリンゴなどの果樹に改植する面もみられたが、この地区では現金収入の方策として養蚕部門は残しておきたいという意向が強かった。昭和二十五年(一九五〇)は農家の六二パーセントにあたる三二六戸、同三十五年でも農家の五八パーセントにあたる二九八戸で養蚕が営まれていた(『更埴地方誌』)。桑園は昭和二十一年四五ヘクタール、二十五年四九ヘクタール、三十五年四〇ヘクタールと戦後一時期、養蚕の好況に支えられて桑園は増加の傾向にあった。リンゴなどの果樹は昭和二十一年八ヘクタール、二十五年一三ヘクタール、三十五年一九ヘクタールと増加し、四〇年ころから栽培面積は桑園を上まわるようになった。また、このころから在来型の米麦・養蚕型の農業方式だけでなく、『稲の豊かに実る里』から名づけられた「稲里」地区そのものが変わりはしめた。
昭和四十一年長野市合併以降は、旧市内の通勤住宅地・商業地と田園が混在する地区へと急速に変わっていった。昭和五十年のこの地区の農家総数は四九七戸と終戦のころとあまり変化はなかったが、総世帯に占める農家率は三四パーセントと低下した。耕地面積も二一四ヘクタールと終戦当時に比べ五割ほど減少した。このころから田があっても稲作をしない農家もあらわれはじめた。リンゴ・モモなどの果樹園は、三一ヘクタールとなり、桑園は三ヘクタールに激減した。終戦当時、農家五〇〇戸余の六割ほど占めていた専業農家は、三四戸となり、このうち男子生産年齢人口のいる世帯は一六戸だけとなり、農家の高齢化、後継者難が深刻にあらわれてきた。
平成七年(一九九五)になると稲里中央区画整理事業など大型開発によって経営農地総面積は一三〇ヘクタールと激減した。また水田総面積一〇七ヘクタール余のうち、三〇ヘクタール余に稲が作付けされず、田のある農家三七三戸のうち、二五戸ではまったく稲を栽培しなかった。田の二毛作は一・七ヘクタールとなり、二毛作田も姿を消そうとしている。リンゴ・モモなどの果樹園地も二八ヘクタールと減少し、桑園は消滅した。総世帯数二六五二世帯のうち、農家は一九五世帯、農家率は七・四パーセントとなり、農家世帯は一割を大きく割った。専業農家も二七世帯と激減し、しかもこのうち、男性生産年齢人口のいる世帯はわずか四戸だけで、農家の高齢化・後継者難はより深刻の度合いを深めてきている(『市統計書』)。