稲里中央土地区画事業

807 ~ 808

稲里地区は既設の道路が改修整備され、長野冬季オリンピック大会に関連して近代的道路も新設された。こうした恵まれた道路網に応じた町づくりが、積極的にすすめられた点に特徴がある。

 明治二十二年(一八八九)、中氷鉋・下氷鉋・田牧の三ヵ村が合併したとき、稲の豊かに実る村づくりを志向して新しい村名「稲里」に託した。この先人たちの思いを実らせたのが、「稲里中央区画事業」の完成といえよう。この事業は対象面積六二ヘクタール余、地権者二五〇人余という大事業であった。昭和五十四年(一九七九)に土地区画事業に関する最初の説明会が開催され、事業案は平成元年(一九八九)に承認された。この事業が始まる以前は、この地区の人口は九〇人ほどで、人口密度の希薄地域であった。農地は五一ヘクタール、このうち水田が七割近くを占めていた。この地区の西端に旧国道一八号が通り、道路沿いには大型店舗や事務所などが立ち並ぶ市街があった。しかし、内部に入ると道路の多くは未舗装の農道で、近代化に取り残された田園地帯の一つであった。土地区画事業の説明会当初、地権者の多くは「稲里」への思いを払拭できなかった。そのうえ、三割近い自有地の減歩率には抵抗感があった。しかし、一〇年の歳月は減歩率などの抵抗感を克服させた。事業の完成を時たずに、地区中央部を東西に貫通する約一・三キロメートルの国道一九号南バイパス沿いは、大型店舗や商店などで埋めつくされた。ツルヤ・西友・コジマ・ヤマダ電機・蔦屋書店などの大型量販店をはじめ、衣料・自動車・食堂などの企業が出店し、新しい街並みが形成された。区画内部にも一般住宅、アパート群でこれまた埋めつくされようとしている。このように「稲が豊かに実る里」と新しい村づくりに託した先人たちの思いは、二〇世紀の締めくくりにふさわしい稲里中央土地区画事業による地域づくりとなって結実した。


写真10 新世紀に向けて発展しつつある稲里中央区街