昭和二十八年(一九五三)一月、県から市町村規模の適正化に関する指針が示された。その試案として真島・稲里・小島田・青木島の四ヵ村合併が明示され、また、町村合併促進法が公布施行された。これによって四ヵ村合併協議会が結成された。当初真島村は長野市への合併の意向が強く、他の三ヵ村とは意見を異にしていた。とくに北村・前渕・川合など真島村北部の住民は、最後まで長野市合併を主張した。これは、昭和十八年に長野市と組合を設けて川合地籍に木橋を架設し、交通の便をはかってきた。ところが、同二十年十月の犀川大洪水で流失したままになっていた。長野市との合併によって川合橋の復旧をはかることが、この地区の発展のうえに必要であるというのが大きな理由であった。しかし、梵天組や本道組など西部の住民は、川合橋が架設されてもその恩恵に浴することが薄いということもあって、四ヵ村合併は挙村体制で臨むことができなかった。昭和二十九年十二月一日、真島・稲里・小島田・青木島の四ヵ村村長は連署をもって合併申請書を知事に提出した。このとき真島村・稲里村の長野市合併派は、大型バスに分乗し、十二月県会で四ヵ村合併案を採択しないよう陳情した。しかし、四ヵ村合併案は十二月県会で可決され、翌三十年一月一日、真島村は更北村の一部となり、真島・川合の二大字は同村の大字に継承された。
昭和四十一年十月十六日、更北村は長野市と合併し、二大字は「真島町」を冠して長野市の大字となった。同六十一年、真島町真島の一部が同区から分かれて大橋南一~二丁目となった。