三 村名「真島・川合」の由来

815 ~ 816

 真島地区は千曲川、犀川の合流点近くに位置するが、古代、千曲川は東部山地の南麓(なんろく)・東麓に沿うようにして流れていた。この地区と犀川をはさんで相対する大豆島や、千曲川をはさんで相対する松代町牧島・若穂牛島も、明治二十二年の「市制・町村制」が施行される以前はいずれも更級郡に属していた。そして真島地区はこれらの地区と同一地域をつくっていた。また、犀川・千曲川の乱流は、小島田・真島・牧島・牛島・綱島・大豆島など地名に伝えられるような島や州をなし、幾筋かの流路によって囲まれたこれらの地域は、牛馬の放牧に適した土地として利用された。

 「真島」は牧島・牛島とともに『延喜式』左右馬寮(さうめりょう)領信濃国一六牧にみえる大室牧の牧域をなしていたといわれる。地名の由来は「馬島」が「真島」になったもので、放牧地が川によって島状に取りのこされ馬を放牧した「馬島」を好字・吉祥字の「真」を選んで「真島」と表記した(『町村誌』)。「真」は接頭語で、完全である、真実である、すぐれているなどの意を加え、また、ほめことばとしても用いられる。

 「川合」は千曲川と犀川の合流する地に位置することからついた地名である。川合区は北は犀川に面し、南は千曲川に臨み、両川の洪水のたびごとに被害をうけた。慶長(けいちょう)(一五九六~一六一五)のころ松代城代花井吉成(よしなり)・吉雄父子によって裾花川が現流路に瀬直しされたという。このため、犀川の河心が南に押され、川合の耕地は流失するようになった。元和(げんな)(一六一五~二四)のころには村高一〇四〇石余、家数二〇〇軒余、上川合・下川合の二つの集落があった。しかし、寛保(かんぽう)二年(一七四二)の千曲川の大洪水をはじめ、しばしばこの地を襲った水害により村は衰亡した。寛延(かんえん)(一七四八~五一)のころは、家数二〇軒ほど、耕地も一〇石余残すのみで、砂礫(されき)の荒野、あるいは、犀川・裾花川の乱流になってしまった(『町村誌』)。こうした水害常襲地の名残りは、いずれも地籍名の下についている「島」「河原」「野」「河式」「土手合」にみることができる。