真島地区は、慶応四年(明治元年、一八六八)家数三四二軒・人数一六〇四人であった。その後、真島村と川合村が合併した二年あとの明治二十四年には、戸数三九一戸・人口二一五五人と、二三年間の年平均増加率は戸数で〇・六パーセント、人口では一・五パーセントであった。この戸口の微増の傾向は昭和二十年代半ばころまでつづいた。昭和二十二年(一九四七)は都市からの疎開や海外からの帰住者もあって、戸数五六一戸・人口三二三一人と戸口はピークに達した。その後は、都市への流出による社会減や自然減によって戸口は減少に転じた。真島村など四ヵ村が合併して更北村が発足した昭和三十年には、戸数五四五戸・人口三一八五人となり、戸口は減少した。
長野市合併後は、四つ橋団地や、大橋南一・二丁目の新しい町も生まれ、昭和五十年には七一四世帯と増加したが、人口は三〇八一人と減少し、地域の老齢化が顕著になってきた。こうした世帯増、人口の停滞傾向はこんにちにいたるもつづいている。すなわち、平成十一年(一九九九)は九一八世帯と更北村発足当時に比べ世帯数は六八パーセント増えたが、人口は三〇九五人と三パーセント微減した。しかし、長野地方卸売団地への道路やオリンピック関連道路も新設され、五輪大橋の架設によって、当地区は長野市郊外地として脚光を浴びるようになった(『市統計書』、数字は各年十月一日現在)。