真島荘と真島氏

819 ~ 820

鎌倉期から戦国期にかけて真島郷がみえる。郷域は現今の真島町真島を中心とした区域と比定されている。真島は「馬島」で、隣接の牛島と同じく大室牧の一部をなしていたという。平安時代の末ころ、京都から大室牧に来た牧官は、土着して地方人となって牧場の一部を開墾して地方豪族となり、在所の大室氏を称した。大室氏の分派として真島に繁栄した氏族は真島氏をとなえ、川合に繁栄した氏族は、川合氏を名乗ったという(『北信濃の歴史』)。真島は馬嶋・間島・真嶋とも書かれた。

 平安時代末ころは善光寺領になっていたらしく、鎌倉幕府の日記『吾妻鏡(あずまかがみ)』の文治二年(一一八六)三月十二日の条に、乃具未済の庄々として「善光寺領河居・馬嶋・村山・吉(布)野」とあるのが文献の初出である。この税不納問題は、幕府の仲介によって前年までの滞納分は全部免除してもらい、今年から期日までにかならず納入する条件で解決している。また、嘉暦(かりゃく)四年(元徳元年、一三二九)三月の諏訪社上社『大宮造営之目録』に「玉垣二間馬嶋」とある(『信史』⑤)。また同月の鎌倉幕府下知状案には「真鳴(嶋)郷地頭等」とみえ、諏訪社上社五月会御射山の頭役のうち、六番右頭を命じられている。

 真島氏は、堀之内に館を構えていた川中島地方の有力な豪族であった。『諏訪御符礼(すわみふれい)之古書』の享徳(きょうとく)三年(一四五四)に「真嶋、花会(はなえ)本所好みて当て候、真嶋入道沙弥慈昌(しゃみじしょう)、御符の礼三貫三百文、御頭(おとう)二拾貫、御教書(みぎょうしょ)」とある(『信史』⑧)。真島慈昌が諏訪神社花会頭役を勤仕して以来、昌持(まさもち)・昌政(まさよし)・昌枝(まさえ)・昌秀などの地頭が祭事の頭役をそれぞれ勤めている。大永(たいえい)三年(一五二三)真島右衛門尉が、眼病平癒祈願のため、堀之内の屋敷内に薬師如来堂を建て、医王院を創立している。

 戦国期、真島氏は村上義清にしたがい、ついで上杉氏に仕えた。天正(てんしょう)十年(一五八二)三月、武田家滅亡後は北信濃四郡は上杉景勝の領するところとなり、真島氏も帰郷した。同年七月十三日、景勝は真嶋与七郎に「今度、額田跡出し置き候、知行致すべきものなり」と安堵(あんど)している。文禄(ぶんろく)三年(一五九四)上杉家「定納員数目録」に「二一七石真嶋民部、三五石真嶋源左衛門、七石真嶋平助」とある。慶長三年(一五九八)景勝にしたがって真島氏も会津へ、ついで米沢へ移住した。会津若松市南原の真島氏は、上杉家が米沢へ減封(げんぽう)されたとき、帰農した子孫という(『北信濃の歴史』)。