川合郷は真島郷と同じく鎌倉期から戦国期にかけてみえる郷名で、河井・川井とも書く。千曲川と犀川の落合、川合・牛島あたりを郷域としていたという(『町村誌』)。馬島荘と同じく、『吾妻鏡』文治二年三月十二日の条に、乃具末済庄々として「善光寺領河居・馬嶋・村山・吉野」とある。嘉暦四年(一三二九)三月の鎌倉幕府「下知状案」によると、北高田・河井両郷地頭は諏訪社上社五月会(さつきえ)の頭役のうち、六番左頭を命じられている(『信史』⑤)。『諏訪御符礼之古書』の寛正(かんしょう)五年(一四六四)花会の条に「宮頭、川井下総守胤景(たねかげ)、御符之礼一貫八百文、使孫六、頭役二拾貫文、御教書礼三貫三百」とある。胤景はこのほかにも応仁(おうにん)二年(一四六八)花会、文明(ぶんめい)五年(一四七三)御射山(みさやま)、同十年花会などそれぞれ頭役を勤めている。同十四年の花会には、河井下野守領景(おさかげ)が頭役を勤めている。その後、川合氏は真島氏・綱島氏によって滅ぼされたという。川合の字「やかたあと」は川合氏の館跡と伝えるが、その跡も判然としない。『貞享(じょうきょう)新切検地帳』に「やかたあと・馬場・かどぞい」など館跡を思わせる地名がみえるが、その字地の所在も不明である。