清水神社 堀之内(蔵王沖) ①祭神 広国押武金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)・相殿秋津比古命(あきつひこのみこと)・秋津比売(ひめ)命 ②由緒 『延喜式』に載る神社と伝えられ、水の宮沖小字清水(前渕)に鎮座し、真島村の産土神(うぶすながみ)として崇敬されていた。その後、犀川大洪水によって社地は流失し、現在地に移転した。永禄年中(一五五八~七〇)の川中島合戦で焼失したという。寛政九年(一七九七)現社号に改称した。清水神社は前渕・北村東西・四ッ橋・梵天東西・堀ノ内・中真島の治水の神として崇敬されてきた。こんにちも秋の祭礼(十月第一日曜日)当日、真島六組が太神楽(だいかぐら)を奉納している。
宝暦九年(一七五九)『松代領神社書上』に「社領壱石、蔵王権現宮、吉田日向」とある。その後、寛政六年蔵王権現宮神主は、更級郡内四一人の神主に『延喜式』記載の「清水神社」に復活したいと申し入れている。これにたいして「清水神社に改称しても、とくに異論はない」と神主全員が署名捺印している(青木家文書)。この直後に、田野口村(信更町田野口)から神祇管領(じんぎかんれい)吉田家に願いでていた諏訪大明神を清水神社に改称することが認可された。これが原因で真島村・力石村(上山田町)と、田野口村とのあいだに、『延喜式』記載の「清水神社」の復活問題で村争いが起きた。関係三ヵ村は京都吉田家に出向いて、それぞれ陳情をしているが、松代藩寺社奉行のあっせんもあって、寛政九年三社とも『延喜式』記載の「清水神社」への改称を吉田家から認可された(田野口区有文書)。式内清水神社には、この三社のほかに信更町三水(さみず)にもある。
金山神社 本道(南三疋山沖)①祭神 金山毘古命(かなやまびこのみこと) ②由緒 宝暦九年の『神社書上』に金山権現宮がみえる。本道組の防火の神・火伏せの神として祭られてきた。明治二十年(一八八七)ころ、神社統合で清水神社に合祀(ごうし)され、社殿は取りこわされ、社地は払い下げられて桑園となった。そのためか、組内に種々異変・不幸がつづいた。これは神罰によるものという古老のことばで、大正末期に清水神社より分祀をうけて現在地に祭った。本道組は、金山・清水両神社の氏子となっている。
川合神社 川合(村北堤防合) ①祭神 建御名方命(たけみなかたのみこと)・事代主命(ことしろぬしのみこと) ②由緒 口碑によると、昔から諏訪大明神宮と称して宮島に祭られ、川合村の産土神(うぶすながみ)であった。その後、享保(きょうほう)・寛保(かんぽう)年中(一七一六~四四)に社地が流失したため、現在地に遷座し、文化十四年(一八一七)社殿を再建した。弘化四年(一八四七)の善光寺地震・犀川大洪水で社殿は倒壊流失した。明治三年(一八七〇)再建され、同十年現社号に改称した。同二十九年、落雷により本殿をはじめ拝殿・幣殿が焼失したが、翌年本殿が再建された。同四十年に幣殿、大正十五年に拝殿が再建された。明治四十一年境内を拡張し、皇大神宮・八幡社・戸隠社を境内に遷座した。