二 寺院

825 ~ 827

 栄昌寺 浄土宗 堀之内 ①本尊 阿弥陀如来(あみだにょらい) ②山号 光台山 ③由諸 寺伝によれば、大永(たいえい)三年(一五二三)馬島右衛門尉が眼病を患ったとき、平癒祈願のために薬師如来堂を真島館の一隅に建て、医王院の開基となった。中世に真島氏は諏訪神社の頭役などを勤仕し、川中島地方の有力な氏人であった。その後、戦国時代に真島氏は他の氏人のなかに埋没したらしく、真島氏の衰退とともに医王院も衰微していった。医王院の衰退に拍車をかけたのが真島氏の会津移住であった。この地に踏みとどまっていた真島氏も、上杉景勝の家臣となって真島の地を去り、会津に移住した。こうして有力な保護者を失った医王院は、その後の水害によって廃寺同様になった。こうした医王院の荒廃しているのを憂えた真島氏縁故の吉田源左衛門は、寛永四年(一六二七)医王院のかたわらに本堂を建立し、真島氏より伝来の護持仏、阿弥陀如来像を安置し、春栄を招いて開山とし、栄昌寺と改称した。寺域は堀之内に館を構えた真島氏の館跡と伝えられている。

 最明寺 浄土宗 本道 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 三疋山(さんぴきさん) ③由緒 北条時頼の全国巡視伝説をもつ寺のひとつである。「由緒書」に、弘長(こうちょう)時代(一二六一~六四)最明寺時頼入道道崇(どうすい)(北条時頼)が開基し、忽鎧(こつがい)が開山とある。時頼は弘長三年十一月二十二日最明寺で亡くなった(『吾妻鏡』)。『町村誌』に「何の因縁をもってこの地にこの寺があるか知る能はず、吾妻鏡に曰く『弘長三年三月十七日、最明寺禅室(時頼)信濃国深田郷(長野市箱清水)を買得したまひ、善光寺に寄付す。不断経衆・不断念仏等の粮料(ろうりょう)に充て置かるるところなり。ひとへに来世の値遇を思(おぼ)す云々(うんぬん)』これによってこれを観れば、ただ禅教のみならず、その卒年にこの寄付あり、善光寺を信じ、念仏に帰依するもまた厚し。本村は善光寺領の時あり。故にこの地にこの寺を建てたものか」とある。最明寺は、寛保(かんぽう)二年(一七四二)の千曲川満水や弘化四年(一八四七)の善光寺大地震・犀川の大洪水で大被害をうけ、檀家も四散し無檀家となり、現在は本堂組の信徒によって維持管理されている(『真島本堂』)。

 善桂寺 曹洞宗 北村 ①本尊 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ) ②山号 二霊山 ③由緒 稲里町下氷鉋明桂寺末。寺伝によれば、寛永十八年(一六四一)川合村中央、村北堤防合に河合喜右衛門が開基創建し、明桂寺七世角羊牛喚を開山とする。その後、たびたびの犀川洪水により境内流失した。享保(きょうほう)(一七一六~三六)のころ、真島村北村西沖に移転した。明治七年(一八七四)に川合村から真島村へ転籍した。

 善法寺 浄土宗 堀之内 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 願弘山 ③由緒 足利幕府管領(かんれい)細川勝元(応仁の乱の責任者)家臣金橋藤次の子、藤正は世の無常を感じ剃髪得度(ていはつとくど)して喜徳坊といった。諸国行脚(あんぎゃ)の途中、寛正(かんしょう)五年(一四六四)当村にとどまって寺堂を建立して真言宗善徳寺の開山となった。その後、天正(てんしょう)二年(一五七四)諸国巡錫(じゅんしゃく)途中の順茂は、この寺の荒廃を憂えて浄土宗の寺院として再興した。その弟子茂天は、師坊の意志を継ぎ、諸堂を整備した。元和(げんな)八年(一六二二)真田氏が松代へ入封(にゅうほう)したのち、寛永三年領内に同じ寺名があるので善法寺と改称した。なお、当寺には諸堂舎の建立・修理の年代を記した棟札(むなふだ)が保存されている。この棟札に「本堂、天正二年再建、延享(えんきょう)二年(一七四五)修理、明治十四年修理。地蔵堂、元文(げんぶん)五年(一七四〇)当村三郎右衛門再建。庫裏、文化二年(一八〇五)再建。表門、天保(てんぽう)二年(一八三一)建立。土蔵、天保三年建立。鐘楼、嘉永四年(一八五一)建立」とある(『北信濃の歴史』)。現庫裏は昭和四十八年(一九七三)再建された。寺には、善光寺信仰の布教用の版木(はんぎ)が保存されている。また、現在の内仏の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)像は、旭左近の守護仏であったものが、この地に流れ着いたものを安置したと伝えられている。

 尊良寺 真言宗 本道 ①本尊 大日如来 ②山号 金剛山 ③由緒 松代町寺尾福徳寺末。寺伝によると建武(けんむ)年中(一三三四~三八)足利氏に都を追われた後醍醐(ごだいご)天皇の皇子、尊良(たかよし)親王は、再起を期して僧形に姿を変えて千曲川辺、真島白山沖にしばらく庵(いおり)を結んだ。その後、親王は建武三年三月、武運つたなく越前国金ヶ崎城(福井県敦賀市)で戦死した。天正五年宗俊が親王庵跡に一寺を建立し、親王ゆかりの尊良寺と号して開山となった。寛保(かんぽう)二年(一七四二)千曲川満水で堂舎は流失し、寛政六年(一七九四)現在地に再建移転した。棟札に「入西寺法印縣慶(けんけい)代、当山現住大阿闍梨明祀(あじゃりめいし)、大工棟梁真島邑(むら)政五郎外」とある。明治六年(一八七三)、上真島・下真島・川合・下小島田・牧島の五ヵ村組合立進脩(しんしゅう)学校の校舎として尊良寺・最明寺も使用された。

 直心庵 曹洞宗 堀之内 ①本尊 阿弥陀如来 ②由緒 稲里町下氷鉋明桂寺の末寺で、尼寺である。寺伝によれば、寛政(一七八九~一八〇一)のころ浄土宗善法寺の内仏であった阿弥陀如来を本尊として庵を建て安置した。本尊は室町時代の作といわれ、光背が更紗(さらさ)模様で、脇侍仏が蓮華の上に乗った珍しい形式である。いつころから明桂寺の末寺になったか明らかでない。