この地区では真島村は地頭知行地、川合村は藩主蔵入地(直轄地)とその領知形態に大きな差異がみられた点に特徴があった。寛文(かんぶん)元年(一六六一)真島村は、本田一五六八石余すべてが真田孫七郎(二一〇〇石)の知行地で、藩の蔵入地は新田二一石余であった。これにたいし、川合村は本田一〇四七石余のうち、知行地は大池市左衛門(高七〇石)の七〇石のみで、残りの本田と新田一三二石余は、藩の蔵入れ地となっていた(『寛文分限帳』)。その後、地頭の知行所の配置替えがおこなわれ、享保(きょうほう)七年(一七二二)になると、真島村では、真田孫七郎家の給所地はなくなっており、総知行地一五三〇石余が三〇人の地頭に分散給付されている。いっぽう川合村では知行地がなくなった(「御分限帳給所附」)。
真島村の地頭三〇人のうち、真島村内の知行高の最高は、大熊左門(高一二〇〇石)二四五石余、最低は白井半左衛門(高一〇〇石)の五石余で、全体平均は五一石余である。同村の村高は一五六八石余で、三八石余が藩の蔵入地となっている(『更埴地方誌』)。
松代藩では給所地も、蔵入地と同じ村免で収納させたが、地頭への納入年貢高は、藩で定めた三ッ五分(三五パーセント)の平均免で打ち切り給付される規定になっていた。平均免による地頭の収納年貢高に過不足が生じた場合は蔵米で調整した。また、寛保(かんぽう)元年(一七四一)ころから、地頭の給所地の半分を藩で借り上げる「半知借上」などもあって、地頭の領民支配は弱められ、明治維新を迎えるのである。