宝暦三年(一七五三)に上真島村と下真島村に分村したが、郷帳類では、一村として扱われていた。村高は、慶長七年(一六〇二)『慶長打立帳』一五五〇石余、正保(しょうほう)四年(一六四七)『正保郷村帳』、元禄十五年(一七〇二)『元禄郷帳』ともに一五六八石余となっている。寛文(かんぶん)四年(一六六四)『本田・新田高辻帳』では、一五六八石余のほかに新田二一石余が別記されている。天保(てんぽう)五年(一八三四)『天保郷帳』一六三八石余と本田高には変動はない。慶応三~四年(一八六七~六八)『旧高旧領』一七〇六石余と増加している。増加した分は、本田・新田高が一本化して記されたためである。明治七年(一八七四)一二九五石余(面積二一〇町九反余)のうち、二二石余が草野で、村高は江戸時代にくらべ激減した。これは総村高に加えられていた「前々川欠(かわかけ)・石砂入荒れ地永引」を差し引いたことによる。慶安(けいあん)二年(一六四九)の本田高一五六八石余、新田七〇石、枝村に東方村・中真島村・東通村・南真島村・梵天村・中村・北村・前測村があった。その後、寛保(かんぽう)二年(一七四二)の千曲川満水によって東方村・南真島村・東通村は流亡した。