千曲川・犀川の合流点付近にあるこの地区の人びとの暮らしは、両河川の動向に左右されながら生活してきた点に特徴がある。安政元年(一八五四)下真島村の「村書上帳」(真島町・宇敷義道蔵)によると、村高は八九七石余で、このうち、四分の一の二二〇石余が水害によって荒れ地となって免租地となっている。この『書上帳』にある「高二三〇石八斗八升五合、前々川欠永引・御年季引共」の文言は、つねに水害に悩まされてきた村の姿を端的にあらわしている。本田五五五石余の年貢率は四二パーセント、新田一一一石余は、二八パーセントとなっている。松代藩の年貢率は最高六〇パーセントから最低二〇パーセント台で、千曲川・犀川沿いの村免は、四〇パーセント台が一般的である。下真島村は洪水の被害は多かったが、年貢率では平均的な村であった。下真島村には北村・堀之内・前渕・中真島・東方の五集落があって、北村には家数が三〇軒あった。これについで堀之内二七軒、前渕二三軒となっている。これらの集落は、千曲川の水害が少ないところに位置している。これらの集落にくらべ、千曲川の水害をうけやすい中真島は九軒、東方は八軒と家数は少ない。民家のほかに寺院二・神主一・山伏一・堂三があった。人数は四七八人で男女ほぼ同数となっている。家数・人数とも当時の村としては平均的な規模の村であった。馬は三頭、牛は飼われていない。
元治(げんじ)元年(一八六四)下真島村の名主、宇忠治が書き綴った「名主控帳」(同前蔵)に何通かの田地譲渡証文の写しがある。このなかに広田村(稲里町田牧)の穀商儀十郎が、真島村東方前沖の所有地、二石八斗三升四合の土地を江戸本庄(所)の石原清左衛門に五八両で売った証文写しがある。売られた土地の高八斗三升四合は「前々川欠永引高引」と記載され、荒れ地のままで売られた。暮れの押しせまった十二月のことである。この年の八月九日、千曲川の大洪水で、下真島村は田畑高二五〇石ほど水害をうけ、藩に年貢減免の訴えをしている。水害をうけた地籍は、東方前沖をはじめ、中村前沖・前渕前沖・前渕北沖・村東新田である。これらの地籍はいずれも千曲川に近く、水害をうけやすい場所にある。現在、東方前沖の南半分は、千曲川堤外地となっている。儀十郎はこのほかに、真島村に所有していた一四石一斗七升の土地も同じく一七〇両で、清左衛門に売り渡している。この売った土地のうち、村東沖の高四石一斗七升は「前々川欠永引高引」である。村東沖地籍の東半分も現在は堤外地となっている。儀十郎が売った下真島村の土地はいずれも千曲川に近い、水害をうけやすい場所にあった。儀十郎がこの村の土地を得た事情は明らかではない。しかし、売買された土地が他村の穀商の所有地であったこと、また、水害をうけやすい土地であったところから推して、罹災した百姓が生活のために、やむをえない事情で売った土地と思われる。土地が人手から人手に渡る、そこには川辺で暮らす村びとたちの悲哀が秘められているのである。