四 騒動

832 ~ 833

 川中島地方は、二毛作という地の利もあって、凶作や領主の重税が主因で発生した騒動の震源地になることはなかった。こうした騒動に巻きこまれて騒動に参加した百姓もいたが、頭取(とうどり)になるものは出なかった。こうした点では真島地区も同じであった。しかし、千曲川・犀川合流点に近い川合村では、洪水後の荒れ地開発の区割問題では、しばしば村びと同士のもめごとが起きた(第五節一「川合三三株」参照)。また、築堤・護岸普請では、対岸の村との利害がからむだけに村争いも起きた。これらの事件は、いずれも千曲川・犀川の落ち合う真島地区の宿命であったといえよう。また、薪や秣(まぐさ)にとぼしい川中島の里村にとって入会(いりあい)山はだいじな山であった。その入会山が赤野田新田村(若穂保科)の農民によって無断で開墾された。このため安永四年(一七七五)赤野田騒動が起きた。この騒動は、真島村の丸山覚之丞が頭取となった。