安永三年(一七七四)川中島一八ヵ村の赤野田騒動は、入会権をめぐって起きた騒動である。牧島・牛島・大豆島・松岡・新田川合・本川合・大塚南・久新川原・綱島・青木島・丹波島・中氷鉋・下氷鉋・小島田・広田・真島・保科の一八ヵ村の赤野田に所有していた入会地が、関係村々に無断で開墾され、集落もできて入会権が侵害された。入会村々は再三にわたり立退きと、新田の破棄を求めたが実行されなかった。藩庁へ訴えでたが、誠意ある処置をしなかった。それどころか、藩では年貢収納の増加を見こして、開墾地の検地をおこない、水帳(土地台帳)に記載し、開墾地を法的に認めてしまった。
安永三年秋、真島村肝煎(きもいり)の子、覚之丞は騒動の頭取となって関係村々に檄(げき)を飛ばした。一八ヵ村の村人は檄に応じ真島村関崎河原に結集し、実力をもって入会地に入植した農家を破壊し、開墾地を奪還した。いっぽう、松代藩庁にたいして「関係村びとが入会地として、一日一背負いずつの薪・秣類を得る権利をもっている大成谷(おおなりや)・小成谷(こなりや)・仏師浦まで開墾は許さず、採草地として保証すること。関係村立ち会いのうえ、地図を作製すること。後日の証拠に水帳記載の不当新田は取り消すこと」の三ヵ条を書面にしたため訴えた(「赤野田騒動鎮守神由来留」)。その後、藩役人が現地に出張して関係村立ち会いで現地検証がおこなわれた。この結果一八ヵ村の主張は認められ、赤野田新田村の農民が開墾した畑三二石余、筆数二九六筆の高請地はつぶされて入会地となった。この騒動で関係村々の肝煎は、村内取り締まり不行き届きの罪で牢舎入りとなり、騒動の頭取となった覚之丞は斬刑に処せられた。また、事件の報告が遅れた保科村の山札見(やまふだみ)は、財産没収のうえ、所追放となり、赤野田新田村の百姓一人が牢舎のうえ、追放となった。このように赤野田騒動は大きな犠牲を出したが、一八ヵ村の入会権は守られた。
真島町本道の丸山家宅地の一隅に「明神様」として崇敬されている石祠(せきし)がある。この石祠は、覚之丞の遺徳を後世に伝えるために入会村々の有志が建立したという。現在も若穂保科・赤野田区にある旧村単位で所有している区有林は、赤野田騒動によって守られた入会地が、こんにちまで伝えられているものである。