江戸期から明治期へ

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明治の初期ころの畑作物は、大小麦・大小豆・粟(あわ)・さつまいも・木綿などが自給的に栽培されていた(『町村誌』)。この畑作物は江戸時代と大差はなかった。文久(ぶんきゅう)三年(一八六三)七月、真島村では「新田畑方は続く干ばつで木綿・粟・大小豆大痛みとなった」と藩庁へ訴えている。また、翌元治(げんじ)元年八月には「打ちつづく雨天のゆえか、木綿は玉が腐れ、大小豆までも作柄が立ち直らない」と、これまた、藩庁に訴えている(「宇忠治控帳」)。江戸時代も畑作は、綿花・大小豆の栽培が中心であった。

 江戸末期ころからこの地区にも桑苗が植えられ、養蚕もみられるようになった。明治になると副業としての養蚕がおこなわれるようになった。養蚕がさかんになるにつれて、明治二十年(一八八七)以降になると家内工業的機屋(はたや)もあらわれた。また、江戸末期、中沢源八父子らによって始められた蚕卵紙の製造もさかんになった。明治八年には生糸二五〇キログラム余が輸出され、蚕卵紙二三〇〇枚余が輸出、あるいは近県に出荷された。このほかに真島村では瓦(かわら)製造もさかんで、瓦八万枚を近隣の村々に出荷した。川合村では、ます一八五キログラム・さけ一五〇キログラム・鯉(こい)七五キログラムが長野町・松代町などに出荷された(『町村誌』)。