犀川・千曲川の水災

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蔵王北沖に「お流れ」「おん流れ」とよばれる微低地がある。犀川が氾濫(はんらん)するごとに横溢(おういつ)した濁流が本流となって、この場所を流れるのでつけられたという。昭和二十年(一九四五)十月、青木島町綱島で堤防が決壊したときの犀川濁流も「お流れ」が本流となった。また、本道南沖道下・中真島南沖地籍などに本道組・中真島組の人びとが「古屋敷」「旧屋敷」とよぶ場所がある。寛保(かんぽう)二年(一七四二)八月の千曲川満水で流亡し、二度と立村されなかった南真島村の旧屋敷からついたという。このように真島地区は犀川と千曲川双方の洪水で罹災した。この地区が甚大な被害をうけた洪水には、宝永二年(一七〇五)・寛保二年・弘化四年(一八四七)・明治元年(一八六八)の大洪水がある。宝永の大洪水は七月七日この地区を襲った。真島村梵天浦沖の堤防を押し破った濁流は、四ッ橋西沖・蔵王北沖・北村前沖などを本流となって耕土を押し流した。蔵王北沖の「お流れ」はこのとき流れた流路跡につけられた呼び名であるという。その後、犀川の横溢した濁流は、このときできた流路跡を流れるようになった。

 寛保二年八月一日の千曲川大洪水は「戌(いぬ)の満水」ともいわれ、流域の村々に大きな被害をあたえた。真島・川合両村の田畑は全部浸水し、真島村では生存者はまれで、家屋流失して一村全滅した。弘化四年の洪水は、善光寺地震の二次災害として四月十三日に発生した。この洪水で真島村は二〇軒が流失し、梵天組で四人の犠牲者が出た。真島村は本新田五〇〇石余、川合村は本新田一一七八石余が濁流で押し流された。明治元年四月十八日の洪水は、川合村で水かさ七・五メートル余にも達し、真島村の堤防は一キロメートルほど根底から流失した。つづいて五月八日の両川の洪水で真島村・川合村の川岸が五、六百メートルほど決壊し、水かさは四月十八日と同じく七・五メートルも増水した。犀口三堰取水口の犀川川床が、三メートルほど低下して堰水は途絶え、村々は田植えに窮し、飲料水に苦しんだ。


写真7 昭和20年10月犀川堤防決壊による真島村の水害(『更北地区の地名』)