寛保二年の千曲川満水に川合村の名主重左衛門はその被害について「溺死七四人、人家五三軒のうち三六軒流・一七軒潰、田畑川欠砂入泥入大方損亡」と藩役所に訴えている(「松代領村々水難届写」松代町・矢野磐蔵)。この洪水で東河原沖にあった下川合集落は流亡したという。生存者は所用で藩庁に出張していた大地主の長百姓源太左衛門一人だけだったという。洪水ののち、しばらくして帰村してみると、自分の所持地であったあたりの河原がさかんに開墾されている。源太左衛門は自分の所持地であることを主張し、その不法をなじったが、村びとは承知しなかった。当時の慣行では、洪水流亡の土地はだれでも自由に開墾できたからである。この事件で源太左衛門は村びとの不法を藩庁に訴えたが、敗訴した。
川合村ではこの訴訟費用を三〇軒の本百姓(年貢を納める土地持ち百姓)が均等割で出金することにしたが、当時川合村には小作百姓が一八軒あった。これらの百姓とも相談して六軒で一軒割として、三軒割分を出金して加入させ、川合三三株が成立した。訴訟になった下河原沖は、全地域を共同開墾し、三三等分後、持ち株に応じて耕作権をあたえ、一〇年を一期として割りかえることにした。また、耕作者が株の権利を他村のものに譲渡することを厳禁した。この規定は、明治十二年に割地が廃止され、個人の永代所有になるまでつづいた。
その後、文化十三年(一八一六)犀川大洪水のとき、「浦の島」が本流となり、その川欠跡の割地について三三株仲間が二派に分かれて争う訴訟が起きた。八株の農民は旧割地を割ることを主張し、二五株の農民は、全水害地を割ることを主張して譲らなかった。それで訴訟になったのである。この訴訟は八株側が勝訴した。弘化四年の犀川大洪水で現在の河合北組前の川欠砂入地の開発は、六〇〇坪を、文久二年(一八六二)の北組開発は、一五間四方(約七三〇平方メートル)を一株割分として三三分割した。この三三株発足当時は、開墾不能の川原や砂入地は大縄張りのままとして三三株割の名残をとどめていたが、これも戦後の農地解放によって個人所有となった(『北信濃の歴史』)。