真島地区では、幕末時代から多くの先覚者が学制発布以前、寺子屋を開いて郷土の子弟の教育に寄与してきた。「百姓や女には学問は必要ない」という社会的風潮の時代に、女の子も寺子のなかにまじっていたという。寺子屋では読み書きそろばんを教授したが、なかには師匠の好む和歌・俳句・和算・華道なども寺子は習得した。『更級郡埴科郡人名辞書』に名を連ねている寺子屋師匠だけでも二〇人ほどもいる。また、筆塚も多く、九基現存し、師匠と寺子たちのつながりの深かったことを今に伝えている。師匠は善法寺住職月周・隆音、最明寺住職典了や川合神社神官宮沢真澄、医師の中沢見忠・伊東逸作もいたが、多くは農民層の知識人であった。
手習い師匠には小山安治・北村富之丞・玉川利助・宮沢真澄・村山保義・吉田勝明がおり、和算の師匠には小山栄三郎・滝沢守一・同宗弥・吉田勝兵衛・同要八がいた。華道の師匠には岡村米吉・小山定吉・同七五三吉(しめきち)・同惣八郎・同文作・牧野嘉左衛門・三俣初右衛門がいた。
宇敷宇忠治は、文化十二年(一八一五)前渕に生まれた。三十数年間にわたって村の子弟教育にあたった。教材は主に『万葉仮名字格』『万葉集』『俳諧(はいかい)秘伝抄』『芭蕉翁句解説大全』『十八史略』などであった。また、尚歯(しょうし)歌会を結成し、地域文化発展にも功績を残した歌人でもある。下真島村名主時代に書き留めた「名主控帳」(真島・宇敷義晴蔵)は、幕末期のこの村のようすを知る貴重な資料である。宮沢真澄は、文政三年(一八二〇)川合に生まれた。家は代々川合神社の神官である。つねに古事記・日本書紀・日本外史を研究し、子弟に教授した。和歌を好み、能書家で、歌道では近隣に名を知られていた。川合神社境内に子弟が建てた筆塚には万葉仮名で表記された「世の中に神の教へのあればこそ人の行ふ道正しけれ」の和歌が刻まれている。滝沢宗弥は、安政三年(一八五六)に本道に生まれ、父守一に和算を学んだ。門弟六〇人余という。測量・製図に秀で、真島小学校・保科小学校などの設計図をはじめ、小島田村・西寺尾村や保科入会山の製図はかれの指導により作成されたという。