二 文化人

841 ~ 843

 この地区の寺子屋の師匠は和歌・俳句・書画・挿花(そうか)にもすぐれた人が多く、こうした面でも地域の指導的役割を果たした。文芸では俳句が主流で、『県俳人名大辞典』には本道の笑白・梅休・慶運・一峰・栄峰・露英、北村の曲汀(きょくてい)、梵天の豊雲らが記載され、幕末から明治・大正期にかけて活躍している。梅休は、小山七五三吉といい、別号を雲錦斎小一休といった。天保(てんぽう)十二年(一八四一)本堂に生まれ、遠州流挿花を三俟一海に学び、北信地方に六〇人余の門人をもった挿花の師匠でもある。俳句をよくし、名月庵桂、野池長楽らと親交が深かった。栄峰は、小山栄治郎、栄太郎ともいい、別号を椿静堂、椿静軒といった。明治五年(一八七二)本道に生まれ、父一峰の感化をうけ、明治二十五年に更東俳壇を設立した。上京して岡野文礼・松永陽堂・猪爪菊外らと交わり、全国を吟遊し、俳句による数十年間の日記を残している。姥捨に「待宵(まつよい)や明日を占ふ山の雲」の句碑がある。昭和時代になって地方俳壇の牽引的役割をになった俳人に、一直・一清・一勝・一龍・一樹・一輔・一忠・披堂・草雨・義子らがいた。いずれも本道組の俳人たちである。義子は、小山義登といい、『火燿(かよう)』の同人で、俳句以外にも農村文化の指導者として足跡を残している。著書に郷土史『本道』がある。

 歌人では、幕末から明治にかけて宮沢真澄・宇敷宇忠治・和田曉斎(ぎょうさい)、昭和期には中沢尚がいた。中沢尚は、教師の時代から「アララギ」の同人として同僚らにも感化をあたえた。戦後は甲信越のアララギの同人誌『ヒムロ』の創立に参画し、会員の指導にあたった。また、更北地区に短歌会「こぶしの会」を創立し、多くの農村歌人を育成した。自著歌集に『杉陰』がある。

 画壇では、吉田鴻崖(こうがい)・和田曉斎が知られている。曉斎は、文政七年(一八二四)前渕に生まれた。画を寺尾村大島芳雲斎に学び、その後、小島田村田中月耕の門人となり、四条派の画をよくした。吉田鴻崖は、稲里村の田中蘭渓(らんけい)に師事し、その後、上京して小室翠雲(すいうん)画塾に学んだ。漢詩文にもすぐれ、作品は画讃の漢詩が多いのが特徴である。


写真8 栄峰句碑「水は澄む影は声して秋は来ぬ」