明治五年(一八七二)学制が公布されると、翌六年八月、上真島・下真島・川合・下小島田・牧島の五ヵ村により、進脩(しんしゅう)学校が創立された。学校は五ヵ村のほぼ中央にあたる本道の尊良寺・最明寺と小山豊作・小山新左衛門の土蔵二ヵ所を仮校舎とした。尊良寺・最明寺の仮校舎へは牧島・下小島田児童が入り、民家の土蔵は真島・川合の児童の教室になった。牧島村児童は、牧島舟橋を渡って川原の草道を通った。開校した明治六年は就学率が高く、女子の就学率は男子を上まわった。この年の学区内学齢児童数三〇四人のうち、七六パーセントにあたる二三一人が就学した。男子は学齢児童一八三人のうち、一一四人(六二パーセント)、女子は学齢児童一二一人のうち、一一七人(九七パーセント)が就学した。明治七年、牧島村が、八年には小島田村の釜屋・荒屋両組が分離した。同九年の学齢児童は、男子一八七人、女子一六二人で、就学した児童は二四三人(七〇パーセント)であった。このうち、男子は一六八人(九〇パーセント)、女子は七五人(四六パーセント)で、男子の就学率は九割に達したが、女子は五割を割った。その後、就学率は女子の就学率が向上したこともあって、明治四十四年には九割に達し(男子九四パーセント・女子八五パーセント)、大正時代を迎えた。
明治十年、上真島に校舎を新築して移転し、最初の下等小学(四年)卒業生、男子三人が巣立った。入学した児童にくらべて卒業生が少なかったのは、義務教育といってもじっさいには家の手伝いをしたり、子守をしている児童が多く、欠席や早退が多かったためである。また、試験も年二回おこなわれ、きびしい査定があって、卒業することはたいへんなことであった。