農村経済不況で幕開けした昭和時代は、学校教育にも暗い影を投げかけた。そして、昭和六年(一九三一)の満州事変、同十二年の日中戦争、同十六年の太平洋戦争は児童生徒をも戦争へと駆り立てた。日中戦争が始まると、出征兵士の見送り、神社参拝、食糧増産の開墾作業、出征農家の勤労奉仕などが小学校の主要な行事としておこなわれるようになった。同十六年三月、「国民学校令」の公布により、真島尋常高等小学校は、真島国民学校になった。十二月八日、太平洋戦争が勃発すると戦時体制は強化され、教育における学校の主体性は失われた。戦争の激しさが、本土に近づくにしたがい、真島国民学校でも教室授業が減少した。高学年は勤労動員に参加するなど児童生徒を戦争へと巻きこんでいった。また、多くの縁故疎開の児童も受け入れた。縁故疎開児童の転入は十九年度に男子三〇人・女子二五人、二十年度は男子三八人・女子四三人に達した。終戦末期の七月には、特攻隊空第五四二部隊が真島国民学校に移駐してきた。八月十三日の米軍艦載機による長野空襲では、学校近くの民家が被爆によって焼失した。