一 戦争と真島地区

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 昭和十二年(一九三七)七月に起きた盧溝橋(ろこうきょう)事件は日中戦争の発端となり、同十六年十二月には太平洋戦争に突入した。十五年には大政翼賛会真島支部や国防婦人会が結成された。また、隣組や常会も国民精神高揚運動の場として強化され、村びとの思想統制・生活統制を推進する母体として利用された。翌年には、真島青少年団が結成された。いっぽう国の重要国策「満州移民」について、更級郡町村会は十四年一月、「満州更級郷」の送出を決定した。真島村からの入植者は、五家族・一五人であった。入植者は兵士と同じく村民の歓呼の声に送られて村をあとにした。その後、二十年八月九日のソ連参戦によって更級開拓団の言語に絶する悲惨な難民行が始まった。同月二十七日、黒竜江省勃利県佐渡郷でソ連軍の一斉攻撃をうけ、稲里村出身の正村秀二郎団長以下三三七人が戦死した。真島村では、婦女子六人と現地召集されなかった男性一人が犠牲になった。生きて故郷の土を踏んだ者は、現地召集をうけて復員した三人だけであった。二歳の男児が残留孤児となった(『長野県満州開拓史』)。

 いっぽう、銃後の真島村でも一家の働き手が徴兵され、労働不足が戦況の悪化とともに深刻化した。食料増産が叫ばれても肥料不足と労働力不足は慢性的となり、肥料も配給制となって下肥(しもごえ)すら貴重なものとなった。労働力不足を補うために、老人や婦人、児童の労働力に頼らざるをえなくなった。軍馬として西山の馬も徴発され、馬耕・代掻きは人力による三つ又でおこなわれた。食糧供出の統制がきびしくなり、農家は増産に追われながらの耐乏生活であった。食糧の不足を補うため、さつまいもも自由販売できなくなり、供出となった。さつまいもの供出時期になると真島農業会前から県道の両側にわたって長々と芋俵が積み並べられ、供出農家は検査を待った。学校でも犀川開墾地などに作付けしたさつまいもを供出した。また、高学年の農家への勤労奉仕は年々多くなり、十九年には七二日にもなった。学童の出征兵士の見送りは十六年九回、十七年二七回、十八年二七回、十九年四一回、二十年一二回と、戦況の悪化するにしたがい出征していく兵士が増加し、戦死者も多くなった。日中戦争では三人の戦死者であったが、太平洋戦争では七七人が戦死した(『百年誌』)。