作物の変化

848 ~ 849

戦後、真島地区は米麦・リンゴを基幹とした農業であった。しかし、昭和四十九年から始まった米の作付け制限、リンゴ価格の低迷と輸入解禁、内的には慢性的な農業労働力不足、就農者の高齢化などで経営の転換を余儀なくされている。

 水田も、リンゴ・モモ・ブドウ園に転換され、平成十年には水田面積は四三ヘクタールと戦後期の三分の一に減少し、五ヘクタールの水田では稲を栽培しなかった。また、水田の裏作は、大小麦からたまねぎ・レタスへと代わったが、昭和五十年は、まだ二〇ヘクタールほどの二毛田があった。この二毛田も平成十年には二ヘクタールとなり、眼前から姿を消そうとしている。

 桑園は、昭和五年ころから減りはじめたが、その多くは戦後、リンゴ園に転換した。昭和二十五年八四ヘクタールあった桑園は、五十年には二六ヘクタールと減少したが、まだ養蚕農家は一五一戸あった。このころまでは、農家としては若干でも現金収入の道として養蚕に期待していたのである。しかし、中国産の安価な生糸や化学繊維に押され、繭価は低迷し、薬剤防除を必要とする果樹園とは共存できず、平成二年には桑園は消滅した。

 リンゴ園は、戦争中、作付け統制令が出て一時停滞したが、戦争が終わるとリンゴは、高値と統制解除でめざましい発展をした。昭和三十五年、真島地区の総農家数四五八戸のうち、八割の三七一戸がリンゴ栽培農家であった。そして経営耕地面積二三五ヘクタールの半分余はリンゴ園であった。その後、養蚕の不振や減反政策などにより水田にもリンゴなどの果樹が植えられた。平成二年にはリンゴなどの果樹園は一三八ヘクタールに増加した。これは経営耕地の六四パーセントにあたる。リンゴ栽培には多くの労働力を必要とする。農業就労人口の周辺都市への流出による人手不足は、スピードスプレーヤー(後出「SS」)による共同防除で補ってきた。しかし、市場団地や企業の進出による交通量の増大から、「SS」の農薬散布は新たな公害問題となって解散した共同防除組合も出てきた。こうした果樹栽培での困難化にともない、平成十年には真島地区の果樹園地のある農家は三〇三戸、果樹園面積一一九ヘクタールと減少した。リンゴ栽培の先進地であった真島地区もリンゴ栽培をめぐる環境はきびしい。リンゴの栽培地の全国的拡大、輸入果物の増加にともなう価格の低迷、リンゴの輸入解禁などに加え、栽培農家の人手不足、高齢化、後継者難など真島リンゴも転換期を迎えるようになった。