市制・町村制の施行

855 ~ 856

明治二十二年(一八八九)四月一日、市制・町村制の施行により、赤田村・田野口村・氷ノ田村・灰原村・高野村・田沢村の六ヵ村が合併して「信田村」が誕生した。旧村名を大字として、村役場を田野口に置いた。合併当初の信田村は戸数五一五戸、人口二八〇五人、面積一八二八町(二二・二九平方キロメートル)余であった。昭和二十三年(一九四八)四月一日、信田の一部(字平越道・第一塩山)は境界変更により更府村へ分割された。同三十一年六月一日、信田村と更府村の合併により信更村が誕生した。合併実現までのあいだには数々の曲折があった。更府村では信州新町に近い地域が信州新町との合併を強く要求したが、信田村でも塩崎村との合併を強く望むものがあって、それぞれに村内を二分して争ったが、同年二月両村とも反対を押し切って議会で合併を議決した。この合併議案が県会に提案されると、合併反対派は県会工作に乗りだし、賛成派も県会に陳情したので、混乱が生じた。この混乱を収拾するため、県会側による事態の鎮静化と、両村の内部調整とがおこなわれた。そののち、五月の県会でようやく合併が可決された。新村名の「信更村」は信田村と更府村のそれぞれの頭字「信・更」をとった。