石川荘

860 ~ 861

篠ノ井石川から信田地区にかけての聖川流域地帯である。ここには、川柳将軍塚や田野口大塚前方後方墳などの古い古墳もあり、早くから開発された地域である。ここは、京都の御室仁和(おむろにんな)寺領で、のちに八条院領となった。石川荘域の南は四宮庄北条に接し、東は建武(けんむ)三年(一二三六)十二月の市河親宗着到状(「市河文書」)に布施御厨(ふせみくりや)中条の名が見える。今のJR篠ノ井駅西方の中条集落から、方田あたりまで考えられるであろう(『更埴地方誌』)。西は建武五年志水實俊が小山田村(信田地区)の地頭職(しき)を足利尊氏からあたえられている(『続錦雑誌』)。小山田村は上石川と赤田との境にある現小山田池の南にあたるので、赤田周辺一帯があたるであろう。