『長野市の石造文化財』に、信田地区では江戸時代以前の石造物で銘文のあるもの三六一基が記録されている。
石灯籠(とうろう)は五九基あるが、この数を市内の他地区とくらべてみると、同じ基数の若穂地区と並んでいちばん多い。信田地区のもっとも古い石造文化財は、軽井沢道端の六地蔵・供養塔・石塔で元禄七年(一六九四)の年号が刻まれている。これにつぐのは、「山の神」にある田野口小日向、宝永二年(一七〇五)の石祠(いしほこら)である。なお、軽井沢道端には、天明六年(一七八六)の三十三ヵ所巡拝塔、天保七年(一八三六)の馬頭観世音(ばとうかんぜおん)などがある。浅野の氷野田神社の境内に鹿島香取社の石祠がある。祠部には弘化四年(一八四七)の善光寺大地震に平組の人たちが目洗石(めあらいいし)の下、小和清水地籍の水田の台地に避難し、命拾いした生活が記録されている(災害の項に詳出)。氷ノ田境の薬王寺跡には寛政十年(一七九八)の読誦塔をはじめ一七基の石造文化財がある。赤田の朝日神社には、安永九年(一七八〇)の石祠、寛政十二年はじめ一〇基の石灯籠がある。田野口の清水神社には、明和九年(一七七二)はじめ八基の石灯籠、歌碑などがある。札木の地蔵堂境内には安永二年の馬頭観世音がある。
原市場の道下には目洗石があり、この巨石上にたまる清水で目を洗うと眼病が治ると伝える。巨石の上に薬師如来(やくしにょらい)がまつられている。土地の人たちはお薬師様といい、里人のお薬師様崇拝は相当あるようで、今は原市場から浅野方面へつながるくだり坂を二〇メートルほどくだった道路下になっているが、当時はこの目洗石の前が本通りであった。
赤田本郷西(山道端)の馬頭観世音からは、江戸時代の農耕や荷運びなど馬といっしょに暮らしてきた農民や馬子たちの気持が伝わってくる。
山田地籍バス停の道をはさんだ東側には「右ハやわたみち 左ハぜんかうじ」と石に刻んだ道標がある。
信田地区は芭蕉句碑をはじめその他の地元俳人歌人の文学碑が建てられている。
芭蕉句碑は、鳥坂(とっさか)頂上の蕎麦(そば)塚に「蕎麦はまだ花でもてなす山路哉(かな)」、田野口礼木横山地蔵尊境内の藤塚に「草臥(くたび)れて宿かる頃や藤の花」、田野口礼木急坂の早苗塚に「雨折/\思ふ事なき早苗哉」がある。