一 村のようす

868 ~ 869

 信田地区は、江戸時代松代領であった。慶長(けいちょう)七年(一六〇二)の「川中島四郡検地打立之帳」に、赤田村三三三石余・田野口村四五四石余・氷熊村一七七石余・灰原村五二石余・高野村一六四石余・小田原村二四石余とある。軽井沢村は大岡村の枝郷三九ヵ村の一つとして記されており、元禄十年(一六九七)の「堂宮改帳」には独立した村として記されている。境新田村は、赤田村・田野口村・氷熊村・三水村の四ヵ村の境界地を開発して寛文(かんぶん)元年(一六六一)に境新田村として成立した。石高は「元禄郷帳」に六七石余とある。

 寛文元年の「家中分限帳」によれば、信田村では二〇人の家臣の知行所が置かれており、そのなかで最高の知行高は氷熊村に八八石の知行所をもっていた成沢助右衛門でほかに一九人の地頭(藩士)がいた。藩士は田野口村九人・高野村四人・軽井沢村四人・氷熊村二人・灰原村一人であった。赤田村・境新田村は、村高全部が蔵入地となっていた。

 慶応四年(一八六八)の「家数等改帳」では赤田村八一軒・四一一人、田野口村一二四軒・六三八入、境新田村三〇軒・一三二人、氷熊村六九軒・三四四人、灰原村三二軒・一六一人、高野村九九軒・四五八人、小田原村一六軒・一〇三人、軽井沢村一九軒・九八人。合計四七〇軒・二三四五人であった。農耕地の分散細分化を避けるために、分家を許さない地区が多かった。

 「赤田村規定覚」によると、「名主・組頭・長百姓・頭立は村定の条目を守って正路に御用を勤める、名主がかわるときは入札(いれふだ)(選挙)をする、役人交替のときは、水帳(検地帳は年貢徴収の基本となる)・諸条目(きまり)・諸帳面をかならず引き継ぐ」とある。また、文政九年(一八二六)の「赤田村取締り一札」には、「正月、祝日に若者が寄り集まり、賭け事勝負などは決してしない。常々夜遊びなどに出て狼藉(ろうぜき)は一切しない。物見見物に出て他村の若者と喧嘩口論をしない」など、若者にたいして守るべきことを教え諭している(「赤田上条家文書」)。