大花見池水地役権訴訟事件

869 ~ 870

信田地区は山間傾斜地で、大花見(おおげみ)池(信州新町中牧区鎌取地籍)・鹿ノ入池・小山田池をはじめ多くの溜池(ためいけ)が築造されている。大花見池は軽井沢・牧田中・下中牧の三ヵ村で利用してきた。中牧区所有の溜池(大花見池)の水利権については、関係者が継承してきた承応(じょうおう)三年(一六五四)の古文書が残されている。その後、用水の分配でたびたび問題が起きたが、そのつど話し合いによって解決してきたという記録も残っている。しかし、明治三十六年(一九〇三)には話し合いがつかなかったので、裁判沙汰になった。そのときの訴状によると、版籍(はんせき)奉還によって大花見池敷は官有地となった。中牧区では関係地区に相談せず、地籍が中牧区にあるので、中牧区の共有地にしたいと県に願いでて許可になった。その後、明治三十五年中牧区は同区民の個人に年期貸し渡しをした。借り主は樋を自由に取りあつかい、池に魚を飼い餌(えさ)を入れたので、池水が汚染し、軽井沢地区住民は飲用水に差し支え非常に困った。そこで、軽井沢区は同じ水掛け組合の牧田中・中牧の内の下中牧へ呼びかけ、軽井沢一六人、牧田中と下中牧四六人、田野口一人の計六三人が、中牧区と池の借り主にたいして民事訴訟を起こした。同四十二年、長野地裁の判決で、原告側の軽井沢村などが勝訴した。被告の中牧区はこの判決を不服として、四十四年に、東京控訴院へ上告したが、同院が棄却したので、水利組合側が勝訴した。

 原告側の訴訟費用は、軽井沢が四割、牧田中が四割、下中牧が二割の比率で負担した。軽井沢地区のなかには、田畑を手放して訴訟費用にあてた人もいた(「大花見池水地役権訴訟」軽井沢区文書)。