現在の県道長野信州新線は新町街道といっていた。新町街道とよばれたころの旧道は、久米路橋、三水、目洗石(めあらいいし)から境新田、赤田の松山・山田、田野口の油田(あぶらでん)をへて鳥坂をくだった。糸魚川から来た「ボッカ」もこの道を通り、沿道に「ボッカ宿」の跡もある。境新田集落の中央をまっすぐ通っている道は、その昔は善光寺道といわれた街道で、原市場から入り、赤田の本郷を通り山田へぬけていた。昔は宿場で道に面して家が並んでいた。現在は皆南向きに改造されているが、家々の呼び名は今も昔と変わらず「油屋・くすり屋・紺屋・呉服屋」などとよばれている。
山田の立石地籍には、松代藩が寛永二年(一六二五)に田野口口留番所を設置した。「女人の出入りは厳重に、穀物や隠れ道にも注意を怠るな」などと、取り調べをきびしくし、治安維持につとめた(「田中家文書」)。明治のころ聖川沿岸に、水車屋が八軒営業していた。村境の頓沢には造り酒屋・浪花屋(旅宿)・錦屋(材木)・油屋・鍛冶屋などが開業して、幕末から明治初期にかけて、県道長野信州新線沿いに集落が発展してきた。
富田屋前のバス停の石垣の前に「右ハやわた みち 左ハぜんかうじ」と刻まれた石の道しるべが建っている。「右ハやわた」は田野口の油田から鳥坂峠へ、「左ハぜんかうじ」は石川坂の旧道急坂をくだった。