弘化四年三月二十四日の善光寺大で、赤田村では居屋敷六軒が倒壊した。田野口村では真福寺の本堂・衆寮、清水神社拝殿等、居家二〇軒余が倒壊し、死者は二人出た。氷熊村では居屋二〇軒ほどが倒壊し、死者は二人出た。灰原村では居家四軒が倒壊した。高野村では、常安寺の庫裏・客殿と居家九軒が倒壊し、死者は一人出た。小田原村では家が一軒倒壊した。軽井沢村では村中の居屋が五分どおり半壊した。大花見池が切れた(『松代真田家文書』国立史料館蔵)。
氷野田神社の境内に鹿島香取社の石祠(いしほこら)がある。これは、小和清水から明治四十一年に氷野田神社へ寄宮(よせみや)をしたものである。犀川の湛水(たんすい)で平組の五戸は流失した。祠部の銘によると、村人たちは、目洗石(めあらいいし)の下の小和清水に小屋を掛けて生活をした。湛水の決壊したあとも、二〇日間ここで避難生活をし、命拾いをした。のちに、産土神(うぶすながみ)の諏訪大明神と、地震を起こす大鯰(なまず)を押さえつける鹿島・香取神を、小和清水の台地に勧請してまつり、祭日を地震の起きた日と定めた。