一 寺子屋と師匠

880 ~ 881

 地区内の寺子屋師匠は『更級郡埴科郡人名辞書』『更埴教育会百年誌』などに一二人記録されている。寺子屋師匠の身分は僧侶六人・農民四人・農業(武士)一人・神官一人である。師匠の半数を僧侶が占めている。

 赤田村専照寺の歴代住職は、本山大和国(奈良県)長谷寺に修行し、仏書・漢籍も修めた。そして、専照寺に帰ってからは寺子屋師匠としても活躍した。なかでも、栄正(えいしょう)・栄知・栄高・栄純は著名である。かれらの門人は赤田村・田野口村・境新田村・犬石村など約一〇〇〇人余に達した。宝暦(一七五一~六四)から明治初年まで百余年間教えた。三水長勝寺に第三一世栄純の筆塚がある。町田春丈は東福寺の人、田野口村密蔵寺第一一世で、のち格物学校の教員となった。内山準之は田野口村真福寺第一一世で、のち格物学校の教員となった。真福寺に筆塚がある。清水倉之助は境新田の人で、江戸時代の和算家。再典流和算に長じ天保(てんぽう)八年(一八三七)改正再典流算額を更埴市の八幡社に奉納した。倉之助の出色の門人に、原市場の河合和田吉(農業)、氷熊村の内山文蔵(農業)がいる。滝内泰一は浅野村の人で、農業・武士。漢籍・剣技・和算など文武両道に達し、氷ノ田の目洗石(めあらいいし)に筆塚がある。山崎重郷は高野村の人で、高野に筆塚がある。児島義雄は神主で、象山に漢文学を学んだ。門人百余人、うち女子が七人いた。高野の明高神社前に筆塚がある。