二 信田村の俳壇

881 ~ 882

 信田村の俳壇は、文化・文政期(一八〇四~三〇)の鴉風(あふう)をはじめ、二〇人余の俳人が『長野県俳人名大辞典』に載せられている。信田村の俳壇に先駆けの役割をになった人たちは、宮本虎杖(こじょう)の門人素谷(そこく)(氷ノ田)、虎杖門系の熊耳(ゆうじ)・鴉風・梅梢(ばいしょう)(氷熊)・翠嶺(すいれい)(赤田)であったと思われる。素谷・熊耳の句は虎杖編『いぬ榧(かや)集』(文化四年刊)、加舎白雄(かやしらお)追善集に載せられている。梅梢の句は倉田葛三(かっさん)編『豆から日記』(文化十二年刊)に、熊耳の句は宮本八朗(はちろう)編『なりかや』(文化十四年刊)に、素谷・熊耳・梅梢の句や鴉風の「俎板(まないた)のなゝくさ見れば野もこひし」は八朗編『はなの』(文政七年刊)、白雄・虎杖・葛三追善集に載せられている。幕末期になると露盛(ろせい)・青隣(せいりん)(田野口)がいる。青隣の句「うしろから明るやう也夏の月」は呉江編『画像篶風(えんぷう)集』に載せられている。信田村の俳壇は明治に入って充実期を迎え、俳壇の宗匠青木梼富(どうふ)があらわれるにいたった。

 明治の俳人は「明治旧派」と「明治期」との二つに分けられている。「明治旧派」には三益(さんえき)(赤田)、「風誘ふ方を上坐や夏坐敷」の春旭(しゅんぎょく)(同)、清憐・勝岳(しょうがく)(田野口)、松露(しょうろ)(原市場)、梼富・色静・正清・西原・清月(せいげつ)・梅竹(ばいちく)・梅木(ばいぼく)(氷熊)、方英(ほうえい)・松露(しょうろ)(氷ノ田)、増路(ぞうろ)(灰原)がいる。

 梼富は本名青木茂平太、氷熊の人。別号信月庵(三世)。元治(げんじ)元年(一八六四)出生。明治三十二年信月庵を戸倉町仙石の小松露篁(ろこう)からうけ三世を称した。更埴地方の旧派俳壇の宗匠。編著に『風雅の友』(明治三十二年刊)・『万寿美(ますみ)草』(明治十七年刊)、『雪百句』、更級庵白逸(はくいつ)の建碑記念集などがある。戸倉町羽尾郷嶺山に句碑がある。明治四十年没。「いまやとて仰ぐや月の山はなれ」(句碑)。

 「明治期」の一角(いっかく)(田野口)、雲渓(うんけい)・尭月(ぎょうげつ)・松仙(しょうせん)(氷熊)の句は梼富編『万寿美草』に載せられている(『長野県俳人名大辞典』)。