一 終戦と民主化の波

884 ~ 885

 信田地区において日清戦争以降太平洋戦争にいたる戦死者は一三〇人であった(忠魂碑)。昭和二十年(一九四五)八月六日には東京の和光学園が赤田隣保館(現在の更級福祉園の前身)に集団疎開してきた。信田小学校に転入した疎開学童は一〇〇人余で、一学級八〇人をこえるクラスができた。八月十三日に長野・篠ノ井が空襲をうけた。旋回する数機が鹿ノ入上空あたりまで何回も飛来した(『三万日のあしあと』)。多くの人びとが戦争の恐ろしさを体験した。