農地改革は太平洋戦争後の日本経済・社会に大きな変化をあたえ、農村の民主化を促進した。改革実施以前、小作料は信田村で一〇アールあたり籾四俵が標準で、これは収穫量のおよそ半分にあたっていた。しかも十一月三日(明治節)までは「鎌止め」されており、「刈り入れ後の籾は十分に乾燥させるように」いいつけられた。地主は小作人の家へ行き、籾俵を棹秤(ぼうはかり)にかけ検査済みの墨印を俵につけた。それを小作人は地主の家へ運んだ。小作農民は過重な小作料の負担に苦しみ、地主に従属する地位に置かれていた。昭和二十一年自作農創設特別措置法と農地調整法の改正法が成立し、農地改革はこの二つの法律を支柱としてすすめた。
昭和四年信田村の総耕地は四八一ヘクタール余、このうち小作地は一六〇ヘクタール余で、全耕地の三・三割を占めていた(『県史近代』統計(一))。その後、農地調整法や、戦中・戦後の食糧増産の国策などもあって小作地は微減した。農地解放が施行される昭和二十二年、信田村では、全耕地四九五ヘクタール余の三一パーセント、一五七ヘクタール余が小作地であった。また、農家総数五六一戸のうち、自作農二二〇戸、小作農九一戸、残りが自小作農、小自作農となっている
(昭和二十三年『県統計書』)。農地解放では一〇〇ヘクタールほどの農地が開放された。農地改革が一段落した昭和二十四年には、全耕地四八八ヘクタール余のうち、四三七ヘクタール余(八九・五パーセント)が自作地となった。また、翌二十五年には、農家五六三戸のうち自作農二九一戸、自小作農二一七戸、小自作農二五戸となり、小作農は五パーセントの三〇戸となった(数値は『わたくしたちの郷土さらしな』)。